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●制作ノート “発想の源=言葉の断片?” それが全てではありませんが‥

ほぼデイリー!
“デイリー・リサイクル”
“T&I制作の際 どこか頭の片隅にあった★言葉の断片を書き出しています。”
だったんですが‥,日に日に時は過ぎて行ってしまうものです。
上手く新陳代謝していくためにも,これからは
関連性のありそうなnew☆最近の情報も交えてアップしていきたいと思います。
今後も★☆一日1つをテーマに一歩一歩,成長(勉強),更新!
◎作品との関連性を楽しんで頂いたり,
訪問して頂いた貴方のイマジネーションを掻き立てる,何かのヒントになれば幸いだと思います。
‘◎ふとしたきっかけで 「はッ★!」,ヒラメキ座が思考の天空に“誕生”する。
それは★の一つ一つのが関連性をもって“繋ながる”瞬間だ!’

※余談になりますが,豊かな感受性を育てる理由の1つとして,
その★!的中率を上げる目的があるのではないか‥,と思った。2004.05.30


○2005,日記,主な内容として。
●側面が三つ葉(四葉)のクローバーで
●前面はオセロな円環
●この立体が回転(好転)する有機的なイメージ,そんな生き物(アイソアクシス)を完成させたいと考えています。
※訳の分らないことを言っていますが,また内容も続くと思いますが,今までの内容を全てひっくるめた訳の分って頂ける塊にできれば,と思います。2005.01.12

【250】静(深)+動(蠕動的ダイナミックな円環)

銘 氷梅 荒川豊蔵 銘 紫匂 加藤唐九朗
※写真 ○左:銘 氷梅 荒川豊蔵 ○右:銘 紫匂 加藤唐九朗
緑を深く感じたがゆえに,私は陶芸の道を真っすぐ歩き始めた。荒川豊蔵
土を離れて私というものはあり得ない。私が生きているのは土あるがためだ。加藤唐九朗
『没後20年 荒川豊蔵と加藤唐九朗 ―桃山陶の美に魅せられた二人の軌跡―』より
〔Art of Life; 2005.03.21 日記〕

【249】オス凸・メス凹(蠕動的円環)
女は深く見,男は遠くを見る。男にとっては世界が心臓,女にとっては心臓が世界
『ドン・ジュアンとファウスト』クリスチャン・D・グラッペ 劇作家

……悲しみ,それはだれにおいてもその目を自分の内部に向けさせるもの。喜びや明るい気分が周囲に浮き立つのと,それは対象的である。内側を見つめたその時,芸術家はより高い自分自身の世界を表現しようとするだろう。またどんな苦しみの中にあっても悲しんでいる自分自身は何よりも力強い味方と感じられるのだ
 ギリシアの二大悲劇作家の一人アイスキュロスは『断片』中でこう述べている。「真の悲しみは,苦しみの支えの杖なり」…… 『世界の名言名文句事典 故事ことわざ研究会編』P99より
※写真のカタログは(僕の勝手な解釈なんですが)どれも端的な感じがして気に入っています。で,何点か掲載されている内の一枚なんですが,見た瞬間 (上)は産道をずっと入っていく入れ子な感じがして,そこを通り抜けると(下)のドローイングに繋ながり,内側へ包み込んだようにひっくり返した状態に子宮な世界を想像しました。それが僕には“女は深く見,男は遠くを見る”な感じがして,“真の悲しみは,苦しみの支えの杖なり”。これは円環な意味でですが,構造に繋がりました。
※その構造に前回の >>『テスティング アンド、 イマジネーション』をはめ込んで心エンジン(トーラス)を回転させ,新たな世界をそこに映し出したいたいと考えています。構造についてはまた他で説明します。
>>髑 髏 杯( 創 造 の グ ラ ス )
>>モザイクの向こう側
>>ランチの後のテーブルで …………

〔Art of Life; 2005.03.21 日記〕

【248】記憶(構造)
 年に一回,だいたいそのぐらいの周期でPCの調子が悪くなる。 昨年のちょうど今頃ウィルスにやられてその対策でハードディスクを増設し,一昨年のまたちょうど同じころは,そういえばマシンを買い換えた。 ライブアップデートはネットで稼働という意味では必要不可欠なことだけど,それ以外のことはマシントラブルが交換のいい機会になんだかなってしまった。 そこで今回もデータの管理はどうしておこうか,と考えていていると頭は次第と脇へとそれていった。そんなところからの話になります。

整理

 整理というと僕の中ですぐに思い出す誰もが知っているあの本がありますが,その“とりあえず捨てる技術”という“バッファー・ボックス”の響きがどこか雑音的なのかノイズなイメージを想起させ思い出す音があります。一見なんの関係もないようなことだけど僕の中ではなぜか“表裏”な関係がしていてゴミ缶をレコードの裏側から引っ掻くと記憶が太鼓な容器の中で胎動するように振動し共鳴している様子があります。早送りな逆撫は意識させないテクニックで不快を跳び越え,真っ黒にクレヨンで塗りつぶされたホワイトボールをスクラッチすると現れた,あの予期せぬ期待と感動が。“感情の色彩”のノイズが現れては消える繰り返しな“VJ”(感覚的)な世界を。と想像はどこまでも拡がってしまいますが‥。
 
スクラッチ

 そして,そんな二つの間(整理とスクラッチ)に挟まるかどうかわからないけど,僕にとって中間的な感じがするのが“カットアップ”(バロウズ)。
 整理。スクラッチ。どれも,・そ・れ・を・踏まえてという意味においての話で,カットアップもまたバロウズが,という意味よりも“見えるところになくて見えないところにある”というような意味においての話になります。で,それをもう少しイメージしやすいという意味でちょっと右上にずらしたところにコラージュ的なものがあるとして,またその個人的なものに切り抜き写真をペタペタ張り合わせたレイアウトのアルバムがあり,またその効果を使った大衆相手なものに広告などがあり,と。
 
W・S・バロウズ

 その逆に,内面の表現手段としての短歌や詩。それをこんどは記憶術に置き換えれば“連想”,メモ術に置き換えれば“画鋲効果”,創造に置き換えれば“星座”のように。トンネルを掘っていくと整理術の光が反対側から射してくる感じがします。
 で,そんな全てを一纏めに包み込んだ容器を外側から引っ掻くように刺激したのがスクラッチな感じ。で,ほかに何かないかな‥
 と,いうようなことを考えながら全体をギュ!と掴んだ指の間から絞り出るようにはみでる感触に何故か生々しいリアルを想像するのと,「ギュ!として」と全身を真空パックされると愛されている感じがする,という言葉の裏に潜んでいる意味は擬似的か実感的か,内側からか外側からか,の違いを除いては核の部分では構造は同じような気がして,そんな構造の記憶のゴム毬の存在をどこかに感じたのか,「ギュ!」っと想像すると辿るように逆流する刺激は表面と精神が繋がっるような快感を覚える??
 全身で風を感じた時の開放感や,洋服が直ぐその気にさせる力,どれも身体的記憶への前向きな刺激のアクセスなんだろうな,と思いながら話は尽きないのでこのへんにしておきます。
 ※参考画像 上:『「超」整理法3』野口悠紀雄(著),中:『WILD STYLE』 BY CHARIE AHEARN / HIP HOP RAP IN NEWYORK GHETTO 1983,下:『MANAPSAR』 presents QUEER a soundtrack to the novel by William S.Burroughs

〔Art of Life; 2005.03.20 日記〕


【247】 自己暗示

「日々に,あらゆる面で,私はますますよくなってゆく」
(‘Day by day,in every way I'm getteing better and better.’)
『自己暗示』C.H.ブルックス/E.クーエ(著)
〔Art of Life; 2005.03.06 日記〕

【246】 回転紙芝居 「常 若」(無技巧の技巧)

― 春先に新芽をふき / 秋に花を咲かせ \ 冬は根元から刈り取られ | ふたたびくる春を待つ ― 「パッタン!」

萩坪

 京都御所清涼殿の裏庭であるこの萩坪(はぎつぼ)と呼ばれる小庭は,日本庭園という広範で複雑なものの,もっとも重要なスピリットを象徴している。……
 ここは造形的技巧がなにひとつ見られない。地面の起状も,水も石も樹木も苔もない。あるものは,地面をおおう白砂と,点々と無雑作に植えられたばかりである。萩は,春先に新芽をふき,秋に花を咲かせれば,冬は根元から刈り取られて,ふたたびくる春を待つ。……
『日本の美術 別巻 庭』 早川正夫(著)より
閑寂のすぱっと清き潔ぎよさ 転

〔Art of Life; 2005.03.03 日記〕

【245】 根源的

 ―1985年 新発売の“NEXT ONE”(サッポロビール)という商品名のビールがありました。その時のプロモーション(非売品)のための本。確か,多分?です。36人の方の話を一冊にまとめたものですが,その中からです。
“根源と最前衛を結ぶアート・プロデューサー” 木幡和枝
■たとえば,微小物質の時間軸に自分をゆだねてみれば……。

 ニューウェーブとしての生物学とか素粒子とか,あるいは前衛的なアートとか,私が興味をもつテーマはいろいろあるけど,そこで共通していると思うのは,ラディカリズムということなのね。それは,過激という意味でなく根源的という意味でです。今はものごとが多様化して変化してさまざまな現象を呈しているけれど,それらの根元に近いもの。たとえば科学でも顕微鏡や加速器で,分子,原子,素粒子と発見されるけれど,小さくなればなるほど宇宙史上では古くからあるものです。田中 やM・グレースも前衛といわれる。しかし,私はとてもプリミティブなものを感じる。前衛とは既成の秩序や社会からものすごく突出して闘っているわけです。それも根源と最先端が対角線のように重なるものが基準になるのね。だから今はやりの軽薄短小は分析対象の現象としてはおもしろいけど,私のなかでは重くて,暗くてという方に魅かれているんです。
 私が翻訳や通訳で道具として蓄積している言語もベーシックなものですね。その根源的というかよりシンプルなことばが使いにくくなっている。基本的な基準同士の照合という機能があらゆる言語から失われつつある気がします。今は世界が認識できないぐらいの加速的速度で変化していて,しかもその相関関係が複雑な効果を起こしている。それにつれて実体と関係なくレッテルや名前が増えていくから,情報検索できなくなって基準もわからなくなるのね。
 だから,自分の時間軸をどこにおくかを考えてみる。与えられた時間軸ではなくて,微生物,アフリカ,星,何でもいい,根源を“自分”以外の所において,ものごとを見てみるんです。微小物質や星の悠久な時に身を預けるとずいぶん楽になります。そうしたものごとの尺度で,その人らしさも出てくるし,85年の現時点での自分をも含めた現象を楽しむこともできるんじゃないかしら。
[『NEXT ONE/IT'S STANDARD』 木幡和枝 1985.3.15 より(全文 見開き2P)]
●……,……,……,“文化史においても,様々な基準が交差・交換します。ニュートンの絶対空間,プランクの量子,アインシュタインの重力場,ダ・ビンチの遠近法,印象派の光,未来派の運動……いずれ劣らぬ基準の極め付けでした。日本では,基準の新旧の対比を「型と型破り」「格と破格」という言葉で呼びならわしてきました。無論,ニュー・ウェーブとしての「型破り」や「破格」も,次の時代には「型」や「格」として様式化されてゆきます。現代は「格」も「破格」も見失ってしまった時代。この『NEXT ONE/IT'S STANDARD』では,「来るべきもの」としてのスタンダードを,三十六人の存在と作品による俯瞰図に仕組んでみました。” 『NEXT ONE/IT'S STANDARD』 1985 SPRING

〔Art of Life; 2005.03.01 日記〕

【244】 Concerto

Garden Snow 雪 Garden Snow


8:20PM. Feb. 26. 2005

* * *

>♪Nigel Kennedy/English Chamber Orchestra“Concerto No. 2 In G Minor 'L'estate' RV315: III. Presto(視聴可です)”
 挑戦は美であり,スタイルだ。
 それは冷たく,そして熱く,華やかにうちひらく。私はそこに最も人間的な誇りを,言葉をかえれば芸術の表情を見とるのである。
[『美の呪力』岡本太郎 P123「挑戦」より一部抜粋]
〔Art of Life; 2005.02.26 日記〕

【243】 不 斉
橘と桜
 x²+6x=40
両辺に9を加えて,
 x²+6x+9=49
  (x+3)²=49
よって,
  x+3=7
または,
  x+3=-7
よって,
  x=4
または,
  x=-10

〔Art of Life; 2005.02.25 日記〕

【242】 枯山水(竜安寺の庭)

◎枯山水。
 “……禅の思想の形象化は,自己の内面凝視の手段としての,精神鍛錬の,また悟りを得んための,修行そのものであって,それを人に見せることを目的とするためのものではない。しかしながら……禅に帰依するほどのものであれば禅の精神世界をそこに見るであろうし,禅を知らぬ現代人が見れば,人間の精神的なエネルギーの凝固としての造形芸術を感ずるであろう。芸術というものが,人間精神の緊張感を意味するとするならば,枯山水はまさに芸術であるというべきだろう。”(『庭』 禅の行の庭 P71より一部引用)とあります。

○それはまた元来覗いては観れない底を覗いていることのよう。
そのことは,近くにある溶岩肌の池。その池が枯渇した時に見せた荒々し表情の経験に,そう思いました。 まるで龍宮城で地獄の閻魔様。ダイナミックに湧き上がる渦のエネルギーは流される魚と一緒に自分も巻き込まれそうになった。
 だとすると。そのせいか。この庭(竜安寺の庭)にはその分枯淡な静けさを感じます。白砂に虎の子渡し,ストンと表面を。緊張関係は球面に水を張ったところなのか。氷が溶けたところなのか。塀は消え,草木も生えて,花見の宴も観えてきた。『庭』文中ではないですが“ここには永遠に新しい魅力がある”。と同時に,見る人の中に永遠に新しい魅力がある,と思ったりし。※波紋の幾何学()。

◎“<枯山水>
……水がないことのほかにも枯山水には他の様式にある要素が著しく欠けているが,逆に他の様式には欠けた要素を備えており,それが盆栽芸術に最も近縁の特色を持つ理由となっている。枯山水には散策・円遊などの実用的要素がなく,屋内から静かにこれを対峙するよう構成される。したがって人体に応じた尺度(ヒューマン・スケール)を考える必要がなく,実際の自然とは別個の自由な尺度の概念で構成されているという特殊性がある。……(『盆栽大辞典』 より一部引用)”

“『盆石の賦』(ぼんせきのふ)
 ……子が水盤の水を吹けば四海の大波(洪濤)はふるい起こり,峯に水を灌げば九天の飛瀑が落下する。石を洗うのは天地を整頓するわけだし,水を換えるのはめいぼつ(暗い海)をはね返すわけだ。これは物の変化にして常のことである。一体,物の小大ということはいまだ定まっているわけではない。(夫物之小大未地 )。蚊の睫も,焦メイにとっては野であるし,カタツムリの角も,蛮触にとっては国である。
 漢土は許由にとっては瓢箪一個より軽い存在である。神仙の住む山であるあのほう壺も龍伯の釣竿1本に危ういのである。お前,これを一体どう考えるか。
 客人は席を避けて両手を重ねていう「この石を視れば自分の目を開き,この室に入れば,自分の認識を改めます。つまり,事物の概念や現象に拘泥しないこと,そうすれば自分を改めること多く,自分を益することひろいものがあるということを知りました」。 予は曰う「お前はただ自分の目を開き認識を改めることを知っただけで,いまだ予が自分の目を開き認識を改めることを知っただけで,いまだ予が自分の目を開き認識を改める意味を理解していない(まだわたしのいうことがわかっておらん)。お前はまた座禅してもう少しよく勉強しなさい」。客は何かいうようである。しかし盆は浪立たず石は動かず。客は無言。予もまた黙す。しばらくして客はあいさつもなく室を出た。(『盆栽大辞典』 訳 丸山秀夫より一部引用)”

竜安寺の庭

 ―もしそのころに今の庭がつくられたとしても,それは一木一草もない今の石庭とはかなり様子のちがった庭であって,眺めの中心をなすものとして爛漫たる桜の花が咲きほこっていた。桃山時代には秀吉が花見にきて歌を詠み,以来,「秀吉公の糸桜」と呼ばれたしだれ桜の名木が方丈前の最大の見どころだったのである。
 ……庭全体の構成が石組みを主体としたものでなく,桜を中心に構成されたものであって,石組みは,その構成の一要素をなすものであったと考えられようか。桜が枯れた後に,石組みの面白さをあらためてみいだした誰れかが,南と西を区画する土塀を築き,一切の樹木と草をとりはらって,石組みを主体とした庭に再構築したものであろう。

〔『日本の美術 別冊 庭』竜安寺の庭より〕
〔Art of Life; 2005.02.16 日記〕

【241】 “二にして一”(“三にして一”)

「知拳印」(ちけんいん)
 “無限循環の渦を生み出す動的な結び合い”

『祈りの道』 知拳印 『かたち誕生』
※写真左:特別展『祈りの道』カタログ裏表紙より 写真右:『かたち誕生』杉浦康平 P68より

退蔵界  金剛界
※左「ア」:左手;退蔵界の象徴 右「バン」:右手;金剛界の象徴 写真『梵字の書き方』より

 ―話は突然ですが >の意味のところを見ていると“(4)忍者が術を行うときに指を組み合わせること。”と書かれている。あ,そう言えばと思い「知拳印」のように心臓の前あたりで左のひとさし指を右手でギュ,と握り。右手は下に左手は上に,思い切り力をいれる。ぐっと意識を指へ,すると天でもなく地でもなく。両界曼荼羅のそれとは違う,忍法(身体的仮想)“二にして一”を感じました。忍者のポーズに術の前の自己暗示(自己催眠)としてのイメージングを想像する。

 で,僕はオッオッオッ(ハッハッハッ)と“三にして一”の動的無限循環(円環)のリング(アイソアクシス)を‥,と考えています。

スモークリング(ハッハッハッ)
※『The Best of LIFE』 スモーク・リングの名人 ハワード・ソシュレク P72より

〔Art of Life; 2005.02.13 日記〕

【240】 『転』(借景)

 ――庭は庭でない 否定は肯定 目の前に拡がっていく――

借景

……どこまでが自然の眺めでどこからが造り庭であるという区別さえもつけにくい,どこまでも庭でありどこまでも大自然であるという,完全な一体化が実現されている。
〔『日本の美術 別冊 庭』大自然の中の庭より〕
〔Art of Life; 2005.02.12 日記〕

【239】 自 由

“真の自由は知性的である。本当の自由は訓練された思惟能力のうちに宿る。「思考の方法」” 〔デューイ アメリカの哲学者〕
〔Art of Life; 2005.02.08 日記〕

【238】 あるものがあるものとして

風

霜柱

在る

〔Art of Life; 2005.02.08 日記〕

【237】 観心十界図(地獄極楽図)表 情

●人に表情があるように,

『The Best Of LIFE』
『The Best Of LIFE』
 人びとの生活,そして世界を見よう。大事件を目撃しよう。貧しい人々の表情と誇らしげな人々のしぐさを熟視しよう。機械,軍隊,大群衆,ジャングルから月世界に至る森羅万象――これらふだん見慣れないものを見よう。絵画を,塔を,そして大発見など,人間の手になるものを見よう。数千キロの彼方にあるもの,あるいは壁や部屋のなかに隠れているもの,危険を冒さずには近寄れないもの,男たちが愛してやまない女性や子供――それらを見よう。そうして,楽しみ,驚き,蒙を啓こう。
ヘンリー・R・ルース ライフ発刊の予告から ―1936年 〔『The Best Of LIFE』より〕
●地球にも表情があり,

『地球56の顔』インゴ・ギュンター
『地球56の顔』インゴ・ギュンター
地球データ美術書
環境,政治,経済,軍事,あらゆるデータを地球儀上に投影してみると,こんな地球の顔が見えてきた。 〔『地球56の顔』インゴ・ギュンター帯より〕
●拝むように,また表情がある。

十一面観音
※十一面観音 『仏像の見方がわかる小事典』より
十一面観音―十の災難をよける
 十一面観音は十一の顔がある観音像を指し,平安時代に多くつくられている。ふつう頭上に十のミニ仏面をつけており,前の三面は慈悲相,左の三面は白い牙を出した相になっていて,すべての方角にいる人々を救うという。てっぺんの一面のみを仏(如来)面とし,直後ろの暴悪大笑相は,人の悪を暴露し,さげすみ冷笑する姿を表している。前の三面は素直に仏の教えに従う人に慈悲を垂れ,左の三面は従わないで勝手なことをしている人に対して怒り,右の三面は善行の人をほめたたえ,後ろの一面にある笑面はゆとりを表している。
 なぜ頭上に十の仏面をつけているかというと,@諸病の苦をとる,A如来の愛護を得る,B財宝を得る,C的の危害から守る,D上司の庇護を受ける,E毒蛇・寒熱の苦を免れる,F刀杖の害を受けない,G水におぼれない,H火に焼かれることがない,I天命を全うすることができる,というこの仏の十の誓願が込められ,この仏さまを拝むと災害から免れると信じて,平安時代には特に盛んに崇拝された。……  〔『仏像の見方がわかる小事典』松涛弘道 P93,94 より一部抜粋〕
〔Art of Life; 2005.02.07 日記〕

【236】 い ろ ( 色 が 景 色 は 色 )

梅 の 香 に 想 う 心 の ピ ン ク か な

梅冬


◎吐いては色へ吸っては景色へ “色が景色は色”へと円環に。構造の話はまたへとします。

〔Art of Life; 2005.02.01 日記〕

【235】 開 放 ( 開 く )

開放

ああ最高に気持ちがいい。寒いはずの肌は毛穴まで開いているようだ。
感動は,全てがパァーとなるが如く実感する。

〔Art of Life; 2005.02.01 日記〕

【234】 ピョンキチ

マジンガーZがいて。ど根性がガエルがいて。
スーパーマンはまったく違う。
ずっとマジンガーZ,と思っていたけれど。しっくりはど根性がガエルかな?
西と東はあるけれど。
比較も?と思うので,ゆっくり考えてみることに。
(覚え書きとして)

〔Art of Life; 2005.01.31 日記〕

【233】 達 磨

“達磨”っていうのは考え抜かれた凄いデザインなんだろうな,と勝手な解釈なところからの話です。

達磨

右でもなく左でもなく前でもなく後ろでもなくドカッとした感じ。その身体的に的を得たような構造。と同時に顔だけの丸い形は一体となったところを表現しているようです。また顔の大きさは筆の迫力と相俟って厳しさの迫力となって迫ってくる感じがする。片目に,というところなど好きだな,と思いました。

※もしかして,僕は見えない心のダ‥。アイソ‥,とふと思ったのでした。

達磨(ボーディダルマ)―禅宗の祖
南部インドのカンチンブラムの出身で,バラモン王国の第三子として生まれた。大乗仏教に親しみ,禅に通じて南回りで中国に渡り,北魏の嵩山にある少林寺で中国僧に禅を伝えたという。その障害は不明なところが多いが,禅宗の第一祖としてあがめられ,面壁九年にわたる坐禅の結果,その手足が動かなくなったという故事にちなんでダルマの人形ができたという。〔『仏像の見方がわかる小事典』松涛弘道 P201より引用〕
〔Art of Life; 2005.01.31 日記〕

【232】 色の話として(色は景色)

 お正月番組(2005.1.4)で“世界最高の料理の巨人アラン・デュカス&エルブジ究極の美食”というのをやっていました。 でちょっと感じたことがあったので。そこら辺の話を切り口として。

 エルブジが‥デュカスが‥という話ではありませんが簡単に説明します。 エルブジの料理はどこかスタイリッシュで食べ方もマナーというより指示があり食器なども含めデザイン的であって,実験的であって。それは頭脳的官能,刺激を楽しむためのもの?その発見,探求といったようすの料理でした。で,お店はというとその料理のショウルームといった意識らしいです。確かそんな内容のことを言ってたと思いますが?かなり前のことなので間違っていたらすみません。

 反対にデュカスのほうは,というと。伝統,郷土(地),文化,などそこらへんのことも含めての料理の探求と創造といった印象でした,が?こちらのほうもあまりいい加減なことは言えませんが。 (ここでは料理がということでないので‥)それで僕は,「ああ,なほど」とタイトルの意味が見えたような判ったような感じで久々の楽しい料理番組でした。

 ここからは番組を見た後の僕の頭の中の話になります。(番組の内容とは直接関係ありません)
“残像のように胸のあたりに残る気持ちはいったい何だろう?” 何かに似てるな。と考えていると,あっ,ケミカルとナチュラル。この対比に似ているな。ケミカルは頭のほうな感じがして。ナチュラルは体(自然)のほうな感じがして。とあまりにも大雑把ですけど, その印象が“色”のイメージとどことなく結びつく。 ケミカルはどんな?といいますと,CMYK,RGB,原子記号をばら撒いたジェリービーンズのような人工的で単体な単独な印象のもの(色)で, ナチュラルは?といいますと日ごろ目にしている単独な印象でない色(単独で見ていない色)。という感じなのですが。対比としは化学と自然。ここでは自然のそれではなくて日常‥という意味で,といった感じです。

 上手くいえないのでこのサイトを取り上げてちょっと説明しますと,白ベースに黄色,HOMEトップのマゼンタ,がケミカルな印象。ナチュラルはといいますと,ここでは写真という考えです。グレーは差異のためのものと考えて使っています。まとめますと,サイト全体は無味(何かをイメージさせない)で,ケミカル色は単独なスポットとしてのもの,ナチュラル(イメージ)は写真に任せて。という構成の配色です。(あくまでも色の説明としてです。これが良いとかいう,そんな大それたことの話ではありません。)

 というように僕にとっての心の“感覚的な色”の分割は,もう少し正確な言いかとをすると色の・組・み・合・わ・せ・によって生じるイメージの分割は大きく分けて二つ。ケミカルとチュラルです。またその明(光り)暗。に分かれている感じがします。 それは味覚や嗅覚にも結びついていて,というより逆からかもしれませんが。 ケミカルに限って言えば,子供のころ食べた駄菓子類。特にキャンディーなどの人口的な色や味,香りがそうするのかもしれません。

 で,ここでちょっと話はずれて。色からはイメージしやすいですがその逆はどう?と考えてみました。 斬り絵(紙)と塗り絵の関係のような話ですが。 マチスが“色がイメージ,カタチ(イメージ)が色”か判りませんが,それがちょうどピタッ!と合うところがアウトライン(線)がないところ。そういう話があったかどうかは脇へ置いといて,そこが“色のカタチであって,カタチの色であって”ということにして。それを踏まえながら日頃生活している日常は塗り絵と斬り絵があったら,斬り絵かな? (参考>Metamorphose/ブルーからクリーム色へ

non
※線でも切り絵でもがない感じ。ぼわっとどこか幻想的でホログラフィックなイメージは‥。 『芸術新潮 7』 P74 吉原治良“スイゾクカン”より

 古いくさいたとえですが“真っ赤なポルシェ”と“ポルシェは真っ赤”だったら“真っ赤なポルシェ”。これじゃ言葉の連想か? だけど色からのイメージというのは案外スムースで,逆は日常の空間にはないな‥。 斬り絵(紙)は経験の連想を切る。(切り絵といってもここではこの色から何をイメージする,という意味においてのことですが)としたら環境や文化の影響は大で。 塗り絵はこれまた大雑把な話ですけど感情に左右される。カラーとモノクロの関係にもちょっと近いところが?? 以前,歌舞伎町で働くカリスマホストの番組を見ていたら,その日の仕事が終わった朝方のこと,オーナーが若いスタッフに空を見上げてポツリと。「この空が青く感じる日は‥逆にこの空が‥」というようなことを言っていたのを思い出し。あれ?これじゃ投影で色も消しちゃうな。変わっちゃうな,なんて考えながら。僕はアイソアクシスな意味においてそんな色に興味があります。

 で,話は変わり。色と色の関係で面白いかな。と感じるのが色をボトムアップに拡大していく感じ,例えば>【17】『VASARELY』)の“逆”で。 例えばこれは『日本の美術 別冊 庭』の表紙ですが,こういうポン,ポン,ポン。と取り出されたような配色に一瞬,「ん?」と感じたのは僕だけかもしれませんが。 その交わらない主張の違和感は,無理やり枠にはめ込んで反発しあう磁石の側面のようで,逆に言えばそこに圧縮された空間を想像する,といった感じです。 市松を白黒に置き換えてみると間に鼠色というより灰色,灰色というより過程の意味でのグレーを見るというか。そう感じるのは僕だけかもしれませんが。

 と,そんな話も実はこじ付けかも‥。でも,その色に今度は木火土金水と五行に置き換えてみたり,赤がちょっと朱色なところなどを見ていると,それなりのイメージが沸いてきます。息を吸い込むと自然と膨らみ開く。つまり色と色の間を拡げたそこに空間を。という立場の見方をすると面白い,という話です。 色は空間に,空間は色に収縮,と。色の呼吸のようなものを感じます。

 子供の頃の話になりますが,夏の夜のこと,僕のところでは香取豚でなく山小屋のそれで,蚊帳があり,フナか金魚か忘れましたけど掛け布団をして。蚊帳の中から掛け軸を見,天井板の木目を見ていると,雷の光りがピカッ。とあったなと思いだしながら,ふすま絵がそうさせたのか,そこは霧のかかった山の中だった。そんな意味あいのミニマムな働きがこういう色の関係にはあるような感じがしました。つまり上手くかみ合うと消えるように立ち上がる感じがする‥?

色
※『日本の美術 別冊 庭』表紙

〔Art of Life; 2005.01.31 日記〕

【231】 雨に雫(梅の木)

“一様な雨に綺麗な数珠の連なりをみる”

梅に雫(数珠)

〔Art of Life; 2005.01.21 日記〕

【230】 川のように時間は流れる(芸術新潮 7 キャッチより)

“いずれも流れ行くもの。過ぎ行くもの。” 好きな絵本です。

小川の風 小川の風

『小川の風』 詩 ジナイーダ・アレクサンドロワ,絵 ヴェーラ・イワーノワ

……主役はこどもたちというより川であって,その流れにそって時間もながれてゆく。表紙を入れてわずか8見開き。絵巻物風の展開は,折本形式で見せる手もあるけど,いやいや,頁をめくるよろこびという絵本ならではの特性を,かくも美しく体験させてくれる作品はほかにない。 〔『芸術新潮 7』 P39より一部抜粋〕
〔Art of Life; 2005.01.20 日記〕

【229】 隙 間(呼吸するように)

“相対変化でもって内部を一定に保つ構造の校倉造り。木の自然な習性を活かしたとはいえ,あたかも呼吸する生き物のようだ。”(適応性,適応能力。またその連続として。)

話は,絶対的では絶対上手くいかない経験の人生を,相対的なもの,と捉えてみたところからです。 “折り合い”という言葉がありますが,その作業は人生(生きるため)の隙間空間。相手を受け入れる領域を決定する作業のようにも感じます。

輪に縛った紐がここにあるとして,1時。2時。の方向へカチ。カチ。または逆へ,カチ。カチ。時計で言えばこのように簡単に決まる場合もあります。が時には何分,何秒のところまで拘ってしまう場合もあり,拘りは通り過ぎてしまう場合もある。そいう時は絶対的になっているのかな,と思いながら。

行動しながら一致点を探し出す作業は,受け入れの連続作業のようでもあって,そのためには生き物のような柔軟な呼吸をする思考が大切なんだな‥。吐き出しつつ,受け入れつつ。そして探しつつ。隙間はそのための外部とを繋ぐ重要な入り口のように思えました。

手水鉢

……手水鉢には,自然石に天然にうがれた穴を利用したものから,幾何学的な形態の加工石まで,好みに応じて自由なかたちの石が用いられるが,加工石の場合でもどこかに自然を感じさせるところがなければ,庭に空間と調和をとりにくい。たとえば慈光院書院まえには,四角柱状の手水鉢が据えられているが,その正確な正方形の上端の一角を,故意に打ちかいて荒い傷口を見せている。完全な形のもつかたさをこわし,打ちかいてできた野面の石の面を見せることで,自然の空間に参加する要件をそなえさせようとするところに,きわめて日本的な美意識の表現が見られるのである。 〔『日本の美術 別冊 庭』空間の均衡より〕
〔Art of Life; 2005.01.20 日記〕

【228】 カルバドスな香り

微熱で麻痺したようにほんのりと辺りを琥珀に感じた。

確かにいるはずなのにどこなのか。

という僕は沈むでもなく浮かぶでもなくじっといる。

ほろ苦さの中に現れるもみ殻な香りの甘さは舌で実感することはできない。

抱きしめたくとも抱きしめられないものがそこにある。

だけどその虚しさが僕の左の奥のほうを切なくもやさしく抱きしめた。

内側から

※ここだけはしっかりいるよ,と。

追記
その晩,僕は湯船に浸かりながら。脈打つのだけを意識してツル(@)。背中を丸め潜ってみた。すると黄色で薄められた朱色が,ドクッ。ドクッ。と動く様子が見えた。カルバドスはこれだったのか。と思いながら,「まてよ」。とSFの世界にだんだんと入っていきますが,僕は胎児のころの世界をどこかで感じているのかな‥?それは別としても,いつから僕が意識を持ったのか,そんなことは判らないけど,意識に誕生日があるとすれば,その日はこんな日じゃなかったのかな,と思うのでした。僕はここにいるのに,僕はどこにいるのだろうと。2005.01.21

〔Art of Life; 2005.01.18 日記〕

【227】 スプーンの音

今朝の太陽の光りは優しく染入る。

故に,寝入り端の音に雪山でどさっと枝が頭を擡げるように目を覚ます。

ダリは銜えたスプーンの床に落ちる音で目を覚ましていたそうです。

〔Art of Life; 2005.01.16 日記〕

【226】 岩の音

毎日のように遠くのほうから聞こえてくる岩を掬っているのか,転がしてるだけなのか。
UFOキャッチャーな音はイモ洗いのように僕の中で転がっている。

その音の意味が判る気がしている。
時々大きく転がり落ちる音に安心するのもそのためだと思う。

弾力のある巨人の手で掬ってしまえば何て事のないことだけど,そういうことじゃない。
と判っている中で後ろを向けば,その音は一生聴くことはできない。ということも。

月の桂の庭

……石は近くの右田ガ丘の岩石であるとうが,京都の石庭とくらべていかにも荒く強い感じが庭の構成に独特な性格を与えている。石の組み方もまったく奔放で,L形の巨石を小さい台石にのせるという手法は作者の勇気のほどを思わせる大胆なものである。…… 〔『日本の美術 別冊 庭』月の桂の庭より〕
〔Art of Life; 2005.01.15 日記〕

【225】 僕のジェームズタレル,ガイド付き

障子に穴を開けた四角い覗き穴が“僕のジェームズタレル”です。
普段はもちろん紙で塞いでいます。で,たまにそれを外しボーっと眺めていると‥

“対称の何もない真っ青なフラット(青空)は抑えきれず平行に立ち上がり不安定な立体へと動きだす”

今から10年ほど昔のことになりますが“3Dステレオドットグラム”というのが流行ったことがありました。“平面作品”(ステレオグラム)を<平行法>と<交差法>という方法で裸眼で立体視できるものです。

<平行法><交差法>
※小学館『CG STEREOGRAM』より

僕はその現象を思いだしながら直感的に,これは“絵のないステレオグラム”(僕のジェームズタレル)だと感じました。
文字や図形が仕込まれていないだけ。つまりそいうことなんだろうな,と。あくまでもカンですが‥
逆な言い方をすれば対象の存在しない,回りを四角にマスキングしたところから覗く青空はキャパじゃないですが“自然にちょっとピンボケ状態”。つまり自然に<平行法><交差法>にしてしまう作用があるんだろうな?と思いました。

話は変わりまして,ここからが本題のような‥

昔のことなんですが。ギョ(凝)ッ!と目玉を見開いて睨まれた経験があって,そのことが暫く忘れられませんでした。ちょっとオーバーな話になってしまいますが「ゾクッ」と心に衝撃が刺さった瞬間だった。と同時にどこにそんな威力が潜んでいるんだ。不思議でなりませんでした。でその時の視線を思い出しながら辿っていくと,これは<平行法>と同じ‥?

何を言いたいのかというと 目は単なる“入り口”(開放状態)ピンホールカメラな(心理)状態になっているのでは?ということです。だから直接僕の奥へ入り込むことことができた,のか?いつもは(意識のスクリーンで)シャットアウトするはずなのに。対称のない瞳の奥にピタ!とハマッてしまったお陰に。 (意識して,)<見ようと・す・る・と消えてしまう。見ようと・し・な・い・と見えてくる。>そういう状態。それがピンホールな世界。なのでしょうか?

アントニー・ゴームリー 『密着』
※アントニー・ゴームリー 『密着』 彫刻

※(平行法では,)僕は空になれないけど空は僕になれる,?

〔Art of Life; 2005.01.14 日記〕

【224】 正す

パッと開けた瞬間の冷っこい風の清々しさにカーテンの内側の陰気な自分をみた。

自分という実験台のフラグメンテーションは少しずつコツコツと変化しているけど

(冷;)もう一人の自分がさっきまでの自分を入れ替える。

今朝もいい天気だ。新たな気持ちで動きだす。

〔Art of Life; 2005.01.14 日記〕

【223】 老・い・る・ほ・ど・に(冴え渡る)

葛飾北斎(画狂老人卍)晩年(八十)の作 『隼と雀(粟に鷹)図』という掛け軸があります。まずは,その話から。
北斎晩年の作と書かれた“晩年”の文字。隼の鮮やかな色彩。天から地へとメタモルフォーゼに圧縮する構図。
急降下し緊迫感を高める鷹の姿。僕の中でパッと一瞬にして繋ながるものがありました。

“急降下は限り(死)へと向かう年齢的なものを。雀を狙う鷹は背後から煽るようにその恐怖を高める。圧縮された精神世界の過程の中で雀は色も鮮やかな隼へと質的変化を遂げる。”
非常に衝撃的な瞬間で,本来の意味がどうかとか,そういうものからはいっさい離れたところで,自分の世界が一瞬に出来上がってしまいました。

粟に鷹

古いですが,ブレードランナーという映画があって,その中で永遠の‥意識でいるような人間よりも,限りある時間(命)を知ってしまったアンドロイドに心引かれていってしまう感情移入というものもがあるとして。それとは別に,限られ時(生)が創出させた質的内面変化があったからこそ魅力的に感じさせた。のではないかと思いつつ,失いつつあるものと,次第に持ちつつあるものの,関係は時間と反比例するように移行する,と思ったり。

と最近はほとんど映画は見ていないので古い話からですみませんでした。TVでやったものでも確か‥北野武監督の『座頭一』が最後だったと思います。座頭一は目の見えるふりをして「なぜ見えるのに目を開けないんだ?」。すると「閉じてたほうが人の気持ちがわかるんだよ」確かこんな感じに??で最後のほうで今度は石かなんかにつまずいて「見ようとしてもみえないんだよ」?とそんな台詞があったと思うですが。ちがったかな‥

それで僕はというと,見ようとすると,広がる精神世界に,老・い・る・ほ・ど・に
と僕にとっての大切な心の一枚。世界観となりました。

※参考として,こちらのサイトでみることが出来ます。>『隼と雀(粟に鷹)図』

〔Art of Life; 2005.01.13 日記〕

【222】 偶然な輝き

昨晩ちょっと用事があって表にでたときのことなですが,遠くの正面に光が3つピッカー,ピッカー,ピッカー‥と伸びるようにみえた。星か,と思いながらしばらく見ていると直線はゆっくりと左右にくずれるようにバラバラになっていった。飛行機が三機,偶然にも直線にそろったところにちょうど出くわしたようだった。

光が揺れながらピッカー,ピッカー,ピッカー‥しているのは別に僕の眼がウルウルしているからでもなく,小学校のころ歌わされた“ピカピカ光る夜空の星よ♪”の歌の意味が分ったようなことだけど,それとは別に黒目(瞳)は二十歳ぐらいまでだれもがキラキラとしてるもんだ。それが少しずつ濁っていく,と逆行するように,こんなにも綺麗な光りを見ながらでも思いだし。でも凄いよやっぱすごいよ飛行機の光があんなに伸びてキラキラ見えるなんて。

〔Art of Life; 2005.01.12 日記〕

【221】 ざらつき

アンディーウォーホルは“これは映画だ”と分るようにフィルムにわざとキズをつけた。
それはあまりにも平坦な映像ストーリーを意識させるためだったのかどうか,そんな話が確かあったかなぐらいの記憶ですみませんが,思い出しつつ, それとはまったく反対に古くなった映画フィルムのキズは僕たちに,記憶を想起させるノイズとなってノスタルジーを誘うということがある。

話はかわり。 楽譜とかぜんぜん分らなし音楽もそれほど詳しくないけれど聴くのは大好きで,例えばピアノの半音のあの音は高まる予定のコースを半分きゅーと抑え“ただ流されないように”やさしくも切ない効果を感じさせる?それとは直接関係ないけれどスポーツでも,転んでもゴールを目指す選手のほうがやけに気になってみたりといろいろあるけれど, メディアはそこら辺の機微に敏感なのか,例えば柔道では野村さんより柔ちゃんのほうをよく取り上げてみたりとか。

〔Art of Life; 2005.01.12 日記〕

【220】 コア(core)

コア

斬新は価値観を揺さぶるように心をざわめかせ,安定で積もった心の埃をふり落とす。

(途中です)

〔Art of Life; 2005.01.12 日記〕

【219】 『真実はマジシャン』

爽やかな風を,と年はじめに書いたからには何かないかな?と考えていると妙な映像が胸の辺りに立ちあがる。

例えばの話ですが今春流行のブランドバック,それだけをすーっと持ってこようとする。

すると手元あたりでお札が枯葉ではないですが,

それだけをぽかっと抜きとると,ただの白いピース(欠片)に化けてしまう。

夢から覚めた虚しさのよう‥

砂漠の黄金は水。真の価値が立ち上がるところに風は吹く。

チ ガ ウ ナ 流れの中にある,存在の流れを切り撮らない限り,風は届かない。

欠片

〔Art of Life; 2005.01.11 日記〕

【218】 反らす(心の望遠鏡)

筒にして覗いてみる。

…一本。…一本。と小指から拡げていく。

次第と眩しさに慣れ

分け隔てのないその中で「損したぁ」

と後悔するのは

あまりにもその世界が広くて気持ちがいいからだな。きっと。

望遠鏡

〔Art of Life; 2005.01.11 日記〕

【217】 リアルが超リアルな瞬間

アンダルシアの犬
〔ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』 16min〕

幕をスパッと割かれ暗闇をフラッシュされたところに一瞬見えるもの。

いきなり「目を開け!」と言われた衝撃のようだった。

見えないはずの目。

想像だけど残像のように一瞬立ち上がるもうひとつの映像(世界)に,存在を確かめた感じがした。しました。

〔Art of Life; 2005.01.11 日記〕

【216】 「ああ調子がいい!」(エコロジックなカタチ)

「ああ調子いい!」を基準と仮定して。

例えば食と体の関係でいえば,美味しい,だけの欲求を満たしていくと大変なことになってしまいますが,それを「ああ調子いい!」に代え“体調の快感”に基準を持っていく。 そのことが体(全体)のバランスをとることにおいてのポイントで,結論でもあるんだろうな,と思いながら。(またエンジンや頭は使わないと調子が悪くなる,というように)

で,漠然とですが調子がいいはホリズム的で,ホリズム的とは調子がいいのバランスの追求のような気がして,その調子がいいの“快感を基準”に保とうとするところに“エコロジー”(経済的で調子がいい)をイメージする。思考も経済も体も直線的は破滅的で,調子がいいの円環(ループなども含めての総称として)はエコロジックを創造する構造のように感じました。


◎流動的なマーブルは斑なくバランスをとることで永遠に弾けることをしらないシャボン玉のよう。「ああ調子がいい!」
※これは体の構造を直感的に拡大解釈して創り上げたイメージの世界の話です,悪しからずお許しくださいませ。

そして今日はいい天気でした。「ああ,気持ちいい!」と思わず背伸びをする。

草の庵に足さしのべて小山田の山田のかはづ聞くがたのしさ  〔良寛〕
〔Art of Life; 2005.01.10 日記〕

【215】 自己を追いかける(円環に夢中に経過する)

沈む夕日を背に校庭で僕は自分の影を踏もうと夢中になる。

傾くにつれ巨大化する自分をこれでもかこれでもか,と追いかける。

すると,まだまだと逃げ足は益々早くなっていく。

そんな気持ちの影でありたいよ,いつまでも。

〔Art of Life; 2005.01.10 日記〕

【214】 心の支点(ダイナミズムな円環)

十あれば八が自分(内)二が外,を常識的な配分に感じると思います。

だけど,ダイナミズムとはよく観察していると2が内で8が外というように見えてくる。 それがいい悪いの話ではなくて,ダイナミズムとはつまりそういうことなのか,と思うところがある。 逆説的に言えば,ダイナミックだからこそできる大車輪のようなものではないかと。 たとえ2だけでもいいなじゃいか,思い切って開き直れる勇気と,しっかりと握り締めた手のひらに十分な信頼あってのことならば,と。

沖でカモメが気持ちよく羽ばたいているのを心のどこかで眺めながら,スカっと晴れわたる青空の下まさか自分が息切れして溺れることなど考えて飛び立った訳でもあるまいし

〔Art of Life; 2005.01.10 日記〕

【213】 目覚め

◎「まだまだ元気だよ」 と冗談まじりの中に,白く覗く眉毛を見つけた瞬間,冷や,と自覚するものがある。

>HOME 『空 理(ソラリ)』(図のないソラリ覚書として) 

〔Art of Life; 2005.01.10 日記〕

【212】 気付き(円環するということの意味)

■1.昨年末のこと
人生とは「運の芸」なり、……


“……江戸末期の幻庵因碩(げんあんいんせき)が「碁は運の芸なり」といったように,勝ちとか負けとかいうのは単なる名前なんだ。全身全霊を対局に注いだことに価値があるのです。……”


(2004/12/21)asahi.comインタビュー記事より一部抜粋 >>http://www.asahi.com/igo/topics/TKY200412200186.html
‥と,朝日のHP掲載記事を読んでいて「なるほど」と素直に納得させられたい,納得したいと思う・ま・ま・年は明けてしまったようだった。(“碁は運の芸なり”,“人生は運の芸なり” のことですが。)
※どこか頭の片隅でその言葉を忘れないでいたのはそれが原因か,と振り返りながら思うのでした。

◎格言にしたいと思うほど深く幅の広いタイトル“人生は運の芸なり”だから故に,どこか雲を掴むようで実感が湧かない。言葉では理解できるけど持続させるための引っ掛り(節目)が具体的に欲しかった。これだと「いつまでやるの?それで報われるの?」というような気力のない弱気な声が内からして,長い大局は土俵際の判らない,踏ん張りどころが見えない相撲のようで,胸の辺りが読むたびにその通りだけど,とどこかでモヤモヤしてしてしまうものがありました。勝敗のない一生懸命な長すぎる印象を,僕は小刻みにして緩急のある刺激と,生きている喜びをその長さの中に欲しかった。具体的に入れてすっきりしたかった。

が,生から死という漠然とした間を刻んで回転させる,ただしくは展開したいがための今回の話だったのか,と逆側の背後から立ち止まり考えてみる,とすでに碁の対局そのものに,そういう全ても含まれてのことなんだろうな。一人納得すると,まず碁を知らない僕が“碁は運の芸なり”,“人生は運の芸なり”,という時点で間違っている。「あっ!恥ずかしい」,と自分で自分の頭を叩き,それではと独自の人生の対局を展開することとした。

■2.話は変わり正月のこと。碁とはいきませんが何年ぶりかにオセロをしました。
多分この時“納得したいと思う・ま・ま・”の気分を引きずりながらゲームをしていたんだと思う。

“3つ返るにもかかわらず1つを選ぶ” “多く裏返るけどわざとそうしない”
「目的(目標)があったんだね」,と先ほどからの言葉(人生とは)を重ね合せに見ていたようだった。

目標に向かっている姿とは回りに流されることなく静かに内なる炎を燃やしている,そんな状態の時のように思う。
オセロではコーナーを取りたい目標が打つ手打つ手の沈黙の中にある。ということと,過去を振り返り,目標が定まってた奴はそういうところがあるな,あったな,と思い浮かべるのでした。

※8マス×8マスがあるからこそ目先のことに囚われない。8マス×8マスは例えれば土俵であり,コーナー(土俵際)は目標であり,マスの数は目標までの試練の数だ,と思えば人生のマス目のようでもあり,その数は人それぞれ違う自分で定めた目標の数のようでもあり,反対に定められたもののようでもあり。そこからしか通過することのできない門のようでもある。もちろんここでのオセロは,だれもが知っているオセロのオセロではすでにないのですが‥。そんなことを考えていました。

■3.日は開けて。
疲れきって湯船に浸かってボーっと“四角の入れ子柄に張り並べた”浴室のタイルの壁面を眺めていて「あ!そうか!」,
意味なく毎日眺めてやっと回答がでた,というより繋がった感じの瞬間でした。

(入れ子の説明は省きまして‥)
四角の中に四角。またその四角の中に四角。あくまでも空想の世界ですが先ほど説明した浴室のタイルが永遠と入れ子に繰り返されて,ずーっとずーっと果てしなく向こうへと行ってしまう。 ※入れ子参考:TVに向けたビデオカメラ,鏡に鏡‥など

という現象が「あ!」,とまた元の自分の視点に戻る瞬間。これでは何を言っているのかさっぱり判らないと思いますので‥,例えば「なぜ?」を突き詰め突き詰め‥ていくと「あ!解かった!そうか!」と突き当たって転化,転換する瞬間。と同時に自分の新たな視点,新たな自分になる(戻る)。

つまり突き当たった“解かった!フレーム”は新たな問題を抱えて一番手前,自分の背後という自分の視点の内からまた一番外側のフレームとして始まるという“気付きの円環”(円環的する入れ子)になる,という話です。

■4.「‥オレだから」
……

■5.心のアイソアクシス
……

〔Art of Life; 2005.01.10 日記〕

【211】 迎 春

冬に春を思い

気負いを無くし爽やかな風が心のアイソアクシスを絶えまず流れ回転しているような年でありたい,と考えております。

爽やかな風は皆様のもとへも絶えまず吹きますよう,心よりお祈りしながら,本年も宜しくお願い申し上げます。

※思ったことがいろいろありましたので更新します,少々お待ちくださいませ。

〔Art of Life; 2005.01.05 日記〕

【210】 繋がりに構造という創造が宿る

あまり詳しくありませんが,最近はだれが流行っているぐらいは知っているというレベルの知識から感じたことの,拡がりとして。

僕は,ここ最近のお笑?バラエティー番組の笑い,というのは例えれば,無意識を意識した商品が購買を煽るような“無意識の笑い”,もう少し解かりやすく言いますと,無意識を“意識”した笑いは,無意識をくすぐるワード,つまり笑いが起こればその過程(トークの内容)はどうでもいい,だとちょっと乱暴なので,それほどそこを重要視してはいない,

“売り上げ達成的な,目的達成的”(笑いを起こさせるため)な,その二つを足した視聴率達成的な“感覚的なもの”(笑い)なんだろうな?と,それをどうこういうような難しい評論の立場とかじゃなくて,そういうことを感じたところの話から‥

だから,その辺のチューニング(感覚)が合わないと拡張的なリアクション(無意識な)は発生しなくなってしまう。感覚とはそういうもので無意識とはそういうものなんだろうな,と思いました。

「文化は国境を越える!」つまり感覚に訴えるようなものは浸透しやすく拡がりやすいものだけど,今さらその例えも古臭いオヤジギャグのようだと思いながら, 話を先ほどのことに戻しますと,ここでいう過程(笑いのプロセス)を“あたり前に意識し過ぎて”,プツンと絶ちきれるがの如く寒いものに化してしまったものが“オヤジギャグ”‥(拡がりという観点の立場から見た話として)

などと考えていると“不連続を連続”に無意識な笑いは,笑いが笑いを呼ぶように深層の塊の中を飛び交うようにリゾームに拡がるところをイメージしました。ところが,そこに拡がるのはただの空しい空洞の世界のようで,満されない感じがしてならない,のですがその空しい空洞の中にも“風が吹けば桶やが儲かる”てきなピタッ!とした感じの出会いの繋がりが起これば,

“拡がりとは繋がりで,繋がりに構造という創造が宿る”というイメージが湧きました。

◎「満たされているのにどこか空しいとはそういう状態の時のようだけど,それがピタッ!と繋ながる時,空虚が裂けたように満たされる。単純なようだけど複雑で,複雑なようだけど単純で,余韻が冷めた時また満たされる」そんな世界を感じたのでした。

* * * 追 記

“本日で今年,2004年も最後になります。明日はもう2005年です。来年は頑張るぞ!今年は(も)頑張るぞ!と仕切り直しをさせてくれるように繰り返し回転する。同じ時間の延長なのに生きるための素晴らし知恵だな,と思っています。
24時間,365日,どこでも変わらぬやっているコンビニのほうが今日と明日という,そこだけに焦点をあてると隔たりのない現実(時間)のように錯覚してしまいがちな有難い世の中ですが,やはり昼があり夜があり一年がある,その繰り返しという弾み車があるからこそ継続できる。今年は,暗めの内容(HP)でしたが,来年は明るい内容を中心に回転し行きたいと考えております。
ということで,やはりすべては健康あってのもの!と最後は話をそこに戻し「皆様よい御歳をお迎えくださいますよう心よりお祈り申し上げます。来年も宜しくお願い申し上げます。」”

落款

〔Art of Life; 2004.12.31 日記〕

【209】 “意識させないから入りやすい”

サブリミナル
© AUGUST BULLOCK,1979 : ARTWORK BY CARRICK NELSON
〔『メディア・レイプ』 ウィルソン・ブライアン・キイより〕

 ◎ルビンの壷,カニッツァ,と最初に“ソラリしたい”と思ったこのイラストは『メディア・レイプ』という本の中からのものです。ソラリすることで炙りだす逆説的に言えば炙りだすものがないものをソラリしても意味がない。そこで,ソラリしたい何点かのものは挙げてある通りですが,それ以外にも日常のささいなことの中から意表をつく,あっと驚くようなものを探してソラリできたら,と思います。ソラリという表現技術でなく,ソラリという“考え方の技術”ですので平面的な図形だけに拘らず,見えない真理,本質のようなものも炙りだし,それをまとめたかたちにできれば,と思っています。

>HOME 『空 理(ソラリ)』

〔Art of Life; 2004.12.30 日記〕

【208】 『どこでも中心,だれもが中心』

図 デビッドマー
※図 デビッド・マー 脳のパターン認識適応力(体制化) 円
David Marrの類似による群化の例,1982。脳は刺激からパターンをみつけ体制化する知覚システムが発達している。これは物理世界を認知して有効に適応する最良の手段のひとつだった。図からは脳のパターン認識適応力(体制化)によって円があちらこちらに浮かび上がってくる。
図 ゲシュタルト
※図 レオナルド・キッズ 競合するパターン
ゲシュタルト心理学は1910年代,ドイツのマックス・ヴェルルトハイマーやクルト・コフカ,ヴォルフガング・ケーラーらによってはじめられ,ドイツ語の「形態」を意味することばゲシュタルトが冠せられ。ゲシュタルト心理学の中心テーマは,脳はいかにして知覚を体制化(パターン化)するのか,ということだった。図はLeonardo Kitzによる競合するパターン例。円が次々と位置を変えて現れてくる。
共に 〔『円と四角』松田行正(構成);向井週太郎(解説)より引用〕

〔Art of Life; 2004.12.30 日記〕

【207】 開 放(無明へ頓悟へ)

神経症を通り抜け,妄想の厚い雲の隙間から飛びこむように突然,パッ!と射す太陽の光。

自分で自分に出会った(見つけた)瞬間は,自分を認めた(諦めた)“瞬間”に重なったようで,“閉じ込められる”が如くロックしていたものは,鋼(はがね)の入った鉄板がぺコン!と大きく反り返るように,今度は逆に“抱きしめられる”が如くロックする。

ちょうど道の途中で,◎“‥へ向かう旅人は青空に希望を抱き,‥へ向かう旅人は雨雲に不安を抱く”ように,

“向かい合わせ”に重なりながら透過するお互いは,ちょうどボールの内側と外側が入れ替わるように,“背中合わせ”にまったく逆の方向へ向かって行った。

‥小雨(小雪も)が降る今朝なのに,窓の外では小鳥は楽しそうに囀っている。

向かい合わせ,背中合わせ
 
北斎 富嶽三十六景・甲州三坂水面
※北斎 富嶽三十六景・甲州三坂水面 (直接関係ありませんが‥,富士山に注目してください。ヒント季節。)

〔Art of Life; 2004.12.29 日記〕

【206】 半眼から中庸(バランス)

毎回すれ違うたびに‥
今日もBMWのライト(アルファなども,どちらもある車種に限りですが‥)を見て,胃の辺りに妙なものを感じました。
(別に嫌いという意味ではありませんが)

「どうしてかな?」と考えながら,これ以上でもこれ以下でもないという半眼な印象の瞼が,丁度ギリギリの緊張のラインを描いているからだな,と思った。(もちろん,車のライトなので,実用の範囲の話ですが。)

で,その緊張感はというと,モヤモヤとした状態で,それを抱えこんだまま,これ以上でもこれ以下でもないという胃の辺に留まって離れないままでいる。離れないとは忘れさせないことで,忘れさせないことは虜にさせられたような,錯覚になる?

ちょっと話はそれますが,女の人は,彼氏に嘘をつく時,目を逸らすのではなく,相手を“じっと”見る(丸いの意),というような実話のような‥笑,又,まん丸の目の人は目に表情がでないので,平気で嘘をつく,というような話を聞いたことがあるような,ないような,話ですみませんが,話を車に戻しますと,ライトに表情がある,ということを言いたかったのですが,その表情に虜になるかは好みによると思いますが,好きな人だったら癖があるけど「そこがたまらないんだよ!」になるし,嫌いは逆に忘れない,という要因のひとつになるな?と思ったのでした。

だから,ビビアンリーも岡本太郎も,どこか,左右アンバランスに“ギョッ!”とした表情をするのだろうか?と考えながら‥。そうだよな,両目を思いっきり見開いて“ギョッ!”と顔を突き出されたら,思わず,“ギョッ!”っと仰け反って逃げてしまうけど,斜に構えて片目で“ギョッ!”だったら,こっちも冗談で斜に構えて片目で“ギョッ!”と顔を突き出すだろな,とこじ付けだけど考えていると,人間ってそこら辺の無意識のところが面白いよな,と思えてきた。

“カセクト”いう言葉が相応しいかどうかわからないけど,使い込む,なじんむ,綺麗は三日で飽きる(逆も),離れてるは中央へ(逆も),夫婦,などなど,対称と一体となって自然とバランスをとろうとする。つまり中庸が素晴らしいのではなくて,心の中で,中庸にバランスをとろうとするところが,人間の素晴らしいところなんだろうな,と思ったのでした。

〔Art of Life; 2004.12.27 日記〕

【205】 見えない法則(真理を衝く

突然,小学生の時,スプリング・ハンド?という凄く“ヒット”したおもちゃで遊んだことを思い出しました。

階段で,ポン!と押してあげると,重力が慣性が,

重力が慣性が‥慣性が重力が,とスプリングが生き物に変わった瞬間でした。

マジック・スプリング

※これは当時のものとは違いますが‥

〔Art of Life; 2004.12.27 日記〕

【204】 観 照(気付きの光)

(アントクアリウム)僕は持っていないのですが‥。

ポトン!とそこへ落すと自然と掘り始めていく。
ほとんどの人が,生態の観察のための購入じゃないと思いますが‥

僕たちもポトン!と運命的にその中に産み落とされ,それぞれの環境下で“生き様”という見えないトンネルを掘っている。
そのアントリウムをとにかく観照していると,ある日突然(!)自分の心のトンネルが(に)繋がる瞬間が訪れる。

◎織り成される模様に繋がる瞬間,心に気付きという光の接点を感じる。

hikari

〔Art of Life; 2004.12.27 日記〕

【203】 図のないイメージ図(円環的)

突然ですが,こんな質問があったとして。
1,2,3,4,5 ★,★★,★★★,★★★★,★★★★★ があって,

Q 安定を感じるのは?
●数字(頭で考える)では,2,4
●星印(視覚的)では,★,★★★,★★★★★

・頭で考えてしまう数字は,どうも割り切れる,ことが安定している印象のようで,
・見るという星印のほうは,どうも中心があって左右にバランスがとれている,という状態を安定している,と感じるような気がしました?(ちなみに★★,★★★★,は今回のように比較の対象がある場合,疑問符のような不安定な気分になりましたが,さて‥)

そこで,つい頭で考えて見てしまう数字と,見た目の印象(星印)の違いから考えてみたのが,以下です。

―星印は,★は自分(1),★★★は顔(1)に目が二つ(2),
★★★★★は,顔と目(1,★★★)の最小のカタチに両手を(2)足した状態と拡大するイメージ。

―数字は,偶数は,いくら増えても二つという割り切れる安定したイメージで,
奇数は(頭では),割り切れない“不安定感”を安定させようと伸びようとするイメージ,として考えてみると‥

中心の星印の両側に拡がる星の図は,自分を中心に拡大する宇宙のイメージで,それを今度はミニマム(★★★)な存在(自分)の枠へはめ込むように戻す。
すると,★★★(3)→★★★(5)→★★★(7)→★★★(9)……,と変化する数値は,内へ内へ,伸びよう伸びようと雪崩込むように拡がっていく唯一自分だけの宇宙で,それをまた同じように,内は外へ,外は内へと繰り返していくイメージです。広くは深く,深くは広く‥(途中です)

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〔Art of Life; 2004.12.26 日記〕

【202】 気付き(相対的変化の中で)

僕はいつも朝は大体早いほうで,まだ今の時期だとそのころは真っ暗で‥

今朝も目を覚まして「ちょっと寒いな‥」と石油ファンヒーターをつけようとする,と。
「あっ」昨晩からきらしたままだった。(そこで注ぎに‥)

石油を入れながらボーっとしていると「あっそれもか」と目に入る。
「しょうがないな」と済ませ,立ち込めていた辺りの臭いも換気する。

「ああ,冷たくて気持ちいいなあ」

まだ暗くて早すぎるけど,家中ほかも換気して,
軽く掃き掃除,ふき掃除を終えて再び外に顔をだすと,朝日が昇りはじめポカポカしていた。

〔Art of Life; 2004.12.26 日記〕

【201】 創 意(融通が含まれたmono)

‥必要なものは何でも直ぐ揃う世の中で,
それはそれで便利で感謝なのですが,それとは別な話として。

目的があって手段があるとして,
その手段(創意工夫)の部分を,代行するように生まれる便利なカタチ(mono)があるとして,

それだと目的を“monoと手段(工夫)”によって完結する関係(方程式)を,
もう少し言い方をかえれば“頭を使う”という“・使・い・か・た・”のところを奪ってしまう感じがして,

‥昔の和的なmonoは,そういう意味において
“融通が含まれたmono”(風呂敷などなど)だったような気がして,(ということにさせて頂いて)

きっとそういうところ(関係性)にこそ,ものの本質(知恵),
伝えていかなければいけない大切なものが隠されている?というところから,
何が言いたいかと言いますと,

「本当に大切なことは誰も教えてくれない,と嘆いた自分が馬鹿だった。」
「世間はいつでも本当のことを教えてくれていた。」
「それに気付こうとしない自分がただいただけだった。」(と過去を振り返り)

※(それだと)ただ,最初から答を期待する。答えを見つける工夫や努力(自問)をしなくなってしまう。
そんな言葉が,ふと頭の中を過ぎったのでした。

〔Art of Life; 2004.12.25 日記〕